『注文の多い料理店』
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【かしはばやしの夜】

清作は、さあ日暮れだぞ、日暮れだぞと云ひながら、稗の根もとにせつせと土をかけてゐました。
そのときはもう、銅づくりのお日さまが、南の山裾の群青いろをしたとこに落ちて、野はらはへんにさびしくなり、白樺の幹などもなにか粉を噴いてゐるやうでした。
いきなり、向ふの柏ばやしの方から、まるで調子はづれの途方もない変な声で、「欝金しやつぽのカンカラカンのカアン。」とどなるのがきこえました。
清作はびっくりして顔いろを変へ、鍬をなげすてて、足音をたてないやうに、そつとそつちへ走つて行きました。
ちやうどかしはばやしの前まで来たとき、清作はふいに、うしろからえり首をつかまれました。
びつくりして振りむいてみますと、赤いトルコ帽をかぶり、鼠いろのへんなだぶだぶの着ものを着て、靴をはいた無暗にせいの高い眼のするどい画かきが、ぷんぷん怒つて立つてゐました。
「何といふざまをしてあるくんだ。まるで這ふやうなあんばいだ。鼠のやうだ。どうだ、弁解のことばがあるか。」
清作はもちろん弁解のことばなどはありませんでしたし、面倒臭くなつたら喧嘩してやらうとおもつて、いきなり空を向いて咽喉いつぱい、「赤いしやつぽのカンカラカンのカアン。」とどなりました。
するとそのせ高の画かきは、にはかに清作の首すぢを放して、まるで咆えるやうな声で笑ひだしました。
その音は林にこんこんひびいたのです。
「うまい、じつにうまい。どうです、すこし林のなかをあるかうぢやありませんか。さうさう、どちらもまだ挨拶を忘れてゐた。ぼくからさきにやらう。いいか、いや今晩は、野はらには小さく切つた影法師がばら播きですね、と。ぼくのあいさつはかうだ。わかるかい。こんどは君だよ。えへん、えへん。」と云ひながら画かきはまた急に意地悪い顔つきになつて、斜めに上の方から軽べつしたやうに清作を見おろしました。
清作はすつかりどぎまぎしましたが、ちやうど夕がたでおなかが空いて、雲が団子のやうに見えてゐましたからあわてて、「えつ、今晩は。よいお晩でございます。えつ。お空はこれから銀のきな粉でまぶされます。ごめんなさい。」と言ひました。
ところが画かきはもうすつかりよろこんで、手をぱちぱち叩いて、それからはねあがつて言ひました。
「おい君、行かう。林へ行かう。おれは柏の木大王のお客さまになつて来てゐるんだ。おもしろいものを見せてやるぞ。」
画かきはにはかにまじめになつて、赤だの白だのぐちやぐちやついた汚ない絵の具箱をかついで、さつさと林の中にはいりました。
そこで清作も、鍬をもたないで手がひまなので、ぶらぶら振つてついて行きました。
林のなかは浅黄いろで、肉桂のやうなにほひがいつぱいでした。
ところが入口から三本目の若い柏の木は、ちやうど片脚をあげてをどりのまねをはじめるところでしたが二人の来たのを見てまるでびつくりして、それからひどくはづかしがつて、あげた片脚の膝を、間がわるさうにべろべろ嘗めながら、横目でぢつと二人の通りすぎるのをみてゐました。
殊に清作が通り過ぎるときは、ちよつとあざ笑ひました。
清作はどうも仕方ないといふやうな気がしてだまつて画かきについて行きました。
ところがどうも、どの木も画かきには機嫌のいい顔をしますが、清作にはいやな顔を見せるのでした。
一本のごつごつした柏の木が、清作の通るとき、うすくらがりに、いきなり自分の脚をつき出して、つまづかせやうとしましたが清作は、「よつとしよ。」と云ひながらそれをはね越えました。
画かきは、「どうかしたかい。」といつてちよつとふり向きましたが、またすぐ向ふを向いてどんどんあるいて行きました。
ちやうどそのとき風が来ましたので、林中の柏の木はいつしよに、「せらせらせら清作、せらせらせらばあ。」とうす気味のわるい声を出して清作をおどさうとしました。
ところが清作は却つてじぶんで口をすてきに大きくして横の方へまげて「へらへらへら清作、へらへらへら、ばばあ。」とどなりつけましたので、柏の木はみんな度ぎもをぬかれてしいんとなつてしまひました。
画かきはあつはは、あつははとびつこのやうな笑ひかたをしました。
そして二人はずうつと木の間を通つて、柏の木大王のところに来ました。
大王は大小とりまぜて十九本の手と、一本の太い脚とをもつて居りました。
まはりにはしつかりしたけらいの柏どもが、まじめにたくさんがんばつてゐます。
画かきは、絵の具ばこをカタンとおろしました。
すると大王はまがつた腰をのばして、低い声で画かきに云ひました。
「もうお帰りかの。待つてましたぢや。そちらは新しい客人ぢやな。が、その人はよしなされ。前科者ぢやぞ。前科九十八犯ぢやぞ。」
清作が怒つてどなりました。
「うそをつけ、前科者だと。おら正直だぞ。」
大王もごつごつの胸を張つて怒りました。
「なにを。證拠はちやんとあるぢや。また帳面にも載つとるぢや。貴さまの悪い斧のあとのついた九十八の足さきがいまでもこの林の中にちやんと残つてゐるぢや。」
「あつはつは。おかしなはなしだ。九十八の足さきといふのは、九十八の切株だらう。それがどうしたといふんだ。おれはちやんと、山主の藤助に酒を二升買つてあるんだ。」
「そんならおれにはなぜ酒を買はんか。」
「買ふいはれがない」
「いや、ある、沢山ある。買へ」
「買ふいはれがない」
画かきは顔をしかめて、しよんぼり立つてこの喧嘩をきいてゐましたがこのとき、俄かに林の木の間から、東の方を指さして叫びました。
「おいおい、喧嘩はよせ。まん円い大将に笑はれるぞ。」
見ると東のとつぷりとした青い山脈の上に、大きなやさしい桃いろの月がのぼつたのでした。
お月さまのちかくはうすい緑いろになつて、柏の若い木はみな、まるで飛びあがるやうに両手をそつちへ出して叫びました。
「おつきさん、おつきさん、おつつきさん、/ついお見外れしてすみません/あんまりおなりがちがふので/ついお見外れしてすみません。」
柏の木大王も白いひげをひねつて、しばらくうむうむと云ひながら、ぢつとお月さまを眺めてから、しづかに歌ひだしました。
「こよひあなたはときいろの/むかしのきものつけなさる/かしはばやしのこのよひは/なつのをどりのだいさんや//やがてあなたはみづいろの/けふのきものをつけなさる/かしはばやしのよろこびは/あなたのそらにかかるまま。」
画かきがよろこんで手を叩きました。
「うまいうまい。よしよし。夏のをどりの第三夜。みんな順順にここに出て歌ふんだ。じぶんの文句でじぶんのふしで歌ふんだ。一等賞から九等賞まではぼくが大きなメタルを書いて、明日枝にぶらさげてやる。」
清作もすつかり浮かれて云ひました。
「さあ来い。へたな方の一等から九等までは、あしたおれがスポンと切つて、こわいとこへ連れてつてやるぞ。」
すると柏の木大王が怒りました。
「何を云ふか。無礼者。」
「何が無礼だ。もう九本切るだけは、とうに山主の藤助に酒を買つてあるんだ。」
「そんならおれにはなぜ買はんか。」
「買ふいはれがない。」
「いやある、沢山ある。」
「ない。」
画かきが顔をしかめて手をせわしく振つて云ひました。
「またはじまつた。まあぼくがいいやうにするから歌をはじめやう。だんだん星も出てきた。いいか、ぼくがうたふよ。賞品のうただよ。
一とうしやうは白金メタル/二とうしやうはきんいろメタル/三とうしやうはすゐぎんメタル/四とうしやうはニツケルメタル/五とうしやうはとたんのメタル/六とうしやうはにせがねメタル/七とうしやうはなまりのメタル/八とうしやうはぶりきのメタル/九とうしやうはマッチのメタル/十とうしやうから百とうしやうまで/あるやらないやらわからぬメタル。」
柏の木大王が機嫌を直してわははわははと笑ひました。
柏の木どもは大王を正面に大きな環をつくりました。
お月さまは、いまちやうど、水いろの着ものと取りかへたところでしたから、そこらは浅い水の底のやう、木のかげはうすく網になつて地に落ちました。
画かきは、赤いしやつぽもゆらゆら燃えて見え、まつすぐに立つて手帳をもち鉛筆をなめました。
「さあ、早くはじめるんだ。早いのは点がいいよ。」
そこで小さな柏の木が、一本ひよいつと環のなかから飛びだして大王に礼をしました。
月のあかりがぱつと青くなりました。
「おまへのうたは題はなんだ。」
画かきは尤もらしく顔をしかめて云ひました。
「馬と兎です。」
「よし、はじめ、」
画かきは手帳に書いて云ひました。
「兎のみみはなが…。」
「ちよつと待つた。」
画かきはとめました。
「鉛筆が折れたんだ。ちよつと削るうち待つてくれ。」
そして画かきはじぶんの右足の靴をぬいでその中に鉛筆を削りはじめました。
柏の木は、遠くからみな感心して、ひそひそ談し合ひながら見て居りました。
そこで大王もたうたう言ひました。
「いや、客人、ありがたう。林をきたなくせまいとの、そのおこころざしはじつに辱けない。」
ところが画かきは平気で、「いいえ、あとでこのけづり屑で酢をつくりますからな。」と返事したものですからさすがの大王も、すこし具合が悪さうに横を向き、柏の木もみな興をさまし、月のあかりもなんだか白つぽくなりました。
ところが画かきは、削るのがすんで立ちあがり、愉快さうに、「さあ、はじめて呉れ。」と云ひました。
柏はざわめき、月光も青くすきとほり、大王も機嫌を直してふんふんと云ひました。
若い木は胸をはつてあたらしく歌ひました。
「うさぎのみみはながいけど/うまのみみよりながくない。」
「わあ、うまいうまい。ああはは、ああはは。」
みんなはわらつたりはやしたりしました。
「一とうしやう、白金メタル。」と画かきが手帳につけながら高く叫びました。
「ぼくのは狐のうたです。」
また一本の若い柏の木がでてきました。
月光はすこし緑いろになりました。
「よろしいはじめつ。」
「きつね、こんこん、きつねのこ、/月よにしつぽが燃えだした。」
「わあ、うまいうまい。わつはは、わつはは。」
「第二とうしやう、きんいろメタル。」
「こんどはぼくやります。ぼくのは猫のうたです。」
「よろしいはじめつ。」
「やまねこ、にやあご、ごろごろ/さとねこ、たつこ、ごろごろ。」
「わあ、うまいうまい。わつはは、わつはは。」
「第三とうしやう、水銀メタル。おい、みんな、大きいやつも出るんだよ。どうしてそんなにぐずぐずしてるんだ。」
画かきが少し意地わるい顔つきをしました。
「わたしのはくるみの木のうたです。」
すこし大きな柏の木がはづかしさうに出てきました。
「よろしい、みんなしづかにするんだ。」
柏の木はうたいました。
「くるみはみどりのきんいろ、な、/風にふかれてすいすいすい、/くるみはみどりの天狗のあふぎ、/風にふかれてばらんばらんばらん、/くるみはみどりのきんいろ、な、/風にふかれてさんさんさん。」
「いいテノ−ルだねえ、うまいねえ、わあわあ。」
「第四とうしやう、ニツケルメタル。」
「ぼくのはさるのこしかけです。」
「よし、はじめ。」
柏の木は手を腰にあてました。
「こざる、こざる、/おまへのこしかけぬれてるぞ、/霧、ぽつしやんぽつしやんぽつしやん、/おまへのこしかけくされるぞ。」
「いいテノ−ルだねえ、いいテノ−ルだねえ、うまいねえ、うまいねえ、わあわあ。」
「第五とうしやう、とたんのメタル。」
「わたしのはしやつぽのうたです。」
それはあの入口から三ばん目の木でした。
「よろしい。はじめ。」
「うこんしやつぽのカンカラカンのカアン/あかいしやつぽのカンカラカンのカアン。」
「うまいうまい。すてきだ。わあわあ。」
「第六とうしやう、にせがねメタル。」
このときまで、しかたなくをとなしくきいてゐた清作が、いきなり叫びだしました。
「なんだ、この歌にせものだぞ。さつきひとのうたつたのまねしたんだぞ。」
「だまれ、無礼もの、その方などの口を出すところでない。」
柏の木大王がぶりぶりしてどなりました。
「なんだと、にせものだからにせものと云つたんだ。生意気いふと、あした斧をもつてきて、片つぱしから伐つてしまふぞ。」
「なにを、こしやくな。その方などの分際でない。」
「ばかを云へ、おれはあした、山主の藤助にちやんと二升酒を買つてくるんだ」
「そんならなぜおれに買はんか。」
「買ふいはれがない。」
「買へ。」
「いはれがない。」
「よせ、よせ、にせものだからにせがねのメタルをやるんだ。あんまりさう喧嘩するなよ。さあ、そのつぎはどうだ。出るんだ出るんだ。」
お月さまの光が青くすきとほつてそこらは湖の底のやうになりました。
「わたしのは清作のうたです。」
またひとりの若い頑丈さうな柏の木が出ました。
「何だと、」
清作が前へ出てなぐりつけやうとしましたら画かきがとめました。
「まあ、待ちたまへ。君のうただつて悪口ともかぎらない。よろしい。はじめ。」
柏の木は足をぐらぐらしながらうたひました。
「清作は、一等卒の服を着て/野原に行つて、ぶだうをたくさんとつてきた。
と斯うだ。だれかあとをつづけてくれ。」
「ホウ、ホウ。」
柏の木はみんなあらしのやうに、清作をひやかして叫びました。
「第七とうしやう、なまりのメタル。」
「わたしがあとをつけます。」
さつきの木のとなりからすぐまた一本の柏の木がとびだしました。
「よろしい、はじめ。」
かしはの木はちらつと清作の方を見て、ちよつとばかにするやうにわらひましたが、すぐにまじめになつてうたひました。
「清作は、葡萄をみんなしぼりあげ/砂糖を入れて/瓶にたくさんつめこんだ。
おい、だれかあとをつづけてくれ。」
「ホツホウ、ホツホウ、ホツホウ、」
柏の木どもは風のやうな変な声をだして清作をひやかしました。
清作はもうとびだしてみんなかたつぱしからぶんなぐつてやりたくてむずむずしましたが、画かきがちやんと前に立ちふさがつてゐますので、どうしても出られませんでした。
「第八等、ぶりきのメタル。」
「わたしがつぎをやります。」
さつきのとなりから、また一本の柏の木がとびだしました。
「よし、はじめつ。」
「清作が納屋にしまつた葡萄酒は/順序ただしく/みんなはじけてなくなつた。」
「わつはつはつは、わつはつはつは、ホツホウ、ホツホウ、ホツホウ。がやがやがや…。」
「やかましい。きさまら、なんだつてひとの酒のことなど、おぼえてやがるんだ。」
清作が飛び出さうとしましたら、画かきにしつかりつかまりました。
「第九とうしやう。マツチのメタル。さあ、次だ、次だ、出るんだよ。どしどし出るんだ。」
ところがみんなは、もうしんとしてしまつて、ひとりもでるものがありませんでした。
「これはいかん。でろ、でろ、みんなでないといかん。でろ。」
画かきはどなりましたが、もうどうしても誰も出ませんでした。
仕方なく画かきは、「こんどはメタルのうんといいやつを出すぞ。早く出ろ。」と云ひましたら、柏の木どもははじめてざわつとしました。
そのとき林の奥の方で、さらさらさらさら音がして、それから、「のろづきおほん、のろづきおほん、/おほん、おほん、/ごぎのごぎのおほん、/おほん、おほん、」とたくさんのふくろふどもが、お月さまのあかりに青じろくはねをひるがへしながら、するするするする出てきて、柏の木の頭の上や手の上、肩やむねにいちめんにとまりました。
立派な金モ−ルをつけたふくろふの大将が、上手に音も立てないで飛んできて、柏の木大王の前に出ました。
そのまつ赤な眼のくまが、じつに奇体に見えました。
よほど年老りらしいのでした。
「今晩は、大王どの、また高貴の客人がた、今晩はちやうどわれわれの方でも、飛び方と握み裂き術との大試験であつたのぢやが、ただいまやつと終わりましたぢや。ついてはこれから聯合で、大乱舞会をはじめてはどうぢやらう。あまりにもたえなるうたのしらべが、われらのまどひのなかにまで響いて来たによつて、このやうにまかり出ましたのぢや。」
「たえなるうたのしらべだと、畜生。」
清作が叫びました。
柏の木大王がきこえないふりをして大きくうなづきました。
「よろしうござる。しごく結構でござらう。いざ、早速とりはじめるといたさうか。」
「されば、」
梟の大将はみんなの方に向いてまるで黒砂糖のやうな甘つたるい声でうたひました。
「からすかんざゑもんは/くろいあたまをくうらりくらり、/とんびとうざゑもんは/あぶら一升でとうろりとろり、/そのくらやみはふくろふの/いさみにいさむもののふが/みみづをつかむときなるぞ/ねとりを襲ふときなるぞ。」
ふくろふどもはもうみんなばかのやうになつてどなりました。
「のろづきおほん、/おほん、おほん、/ごぎのごぎおほん、/おほん、おほん。」
かしはの木大王が眉をひそめて云ひました。
「どうもきみたちのうたは下等ぢや。君子のきくべきものではない。」
ふくろふの大将はへんな顔をしてしまひました。
すると赤と白の綬をかけたふくろふの副官が笑つて云ひました。
「まあ、こんやはあんまり怒らないやうにいたしませう。うたもこんどは上等のをやりますから。みんな一しよにおどりませう。さあ木の方も鳥の方も用意いいか。
おつきさんおつきさんまんまるまるるるん/おほしさんおほしさんぴかりぴりるるん/かしははかんかのかんからからららん/ふくろはのろづきおつほほほほほほん。」
かしはの木は両手をあげてそりかへつたり、頭や足をまるで天上に投げあげるやうにしたり、一生けん命踊りました。
それにあはせてふくろふどもは、さつさつと銀いろのはねを、ひらいたりとぢたりしました。
じつにそれがうまく合つたのでした。
月の光は真珠のやうに、すこしおぼろになり、柏の木大王もよろこんですぐうたひました。
「雨はざあざあざつざざざざざあ/風はどうどうどつどどどどどう/あられぱらぱらぱらぱらつたたあ/雨はざあざあざつざざざざざあ」
「あつだめだ、霧が落ちてきた。」とふくろふの副官が高く叫びました。
なるほど月はもう青白い霧にかくされてしまつてぼおつと円く見えるだけ、その霧はまるで矢のやうに林の中に降りてくるのでした。
柏の木はみんな度をうしなつて、片脚をあげたり両手をそつちへのばしたり、眼をつりあげたりしたまま化石したやうにつつ立つてしまひました。
冷たい霧がさつと清作の顔にかかりました。
画かきはもうどこへ行つたか赤いしやつぽだけがほうり出してあつて、自分はかげもかたちもありませんでした。
霧の中を飛び術のまだできてゐないふくろふの、ばたばた遁げて行く音がしました。
清作はそこで林を出ました。
柏の木はみんな踊のままの形で残念さうに横眼で清作を見送りました。
林を出てから空を見ますと、さつきまでお月さまのあつたあたりはやつとぼんやりあかるくて、そこを黒い犬のやうな形の雲がかけて行き、林のずうつと向ふの沼森のあたりから、「赤いしやつぽのカンカラカンのカアン。」と画かきが力いつぱい叫んでゐる声がかすかにきこえました。