むかしむかし、奥州安達ヶ原と云ふ処に、恐ろしい鬼婆が んで居りまして、其近所を通る旅人をば、取つて喰うと云ふ評判でした。
或日の事で、一人の旅僧が、此の安達ヶ原を通りかゝりましたが、丁度日の暮方で、風は寒し、路は遠し、お腹は減る、足は草臥れる、もうどうしても先へ行かれませんから、何処か其処等に家があるなら、頼んで留めて貰はうと思ひましたが、生憎此処は野原の中央で、宿屋などゝ云ふ物は一軒もありませんから、これは如何したら可いだらうと思つて、大きに困つてしまひました。
すると向ふの遠くの方に、燈火が一ツ見えました。さては彼方に家があるのか、やれ嬉しや、そんなら速く行て頼んで見ようと、その燈火を目的にしまして、杖を力に、草臥足を引摺りながら、やツとの事で其処迄来て見ますと、これは野中の一軒家で、垣根は破れ、柱は曲つて、それはそれは汚ならしい廃屋ですが、中には人の好さゝうな老婆さんが、破れた行燈を側に置いて、頻りに糸を繰つて居ります。
旅僧はこれを見て、垣根の外から声をかけました。「モシモシ老婆さん、私は旅の者ですが、此の原中へ迷ひ込で、大きに困つて居りますから、何卒今夜一晩留めて下さいませんか。」
かう云ひますと、老婆さんは此方を向いて、「それはさぞお困りでしやう。だが此処は一軒家で、蒲団もろくにございませんから、お宿はお断り申します。」と云ひますから、旅僧は周章てゝ、「いゝえ、蒲団も何も入りません、只置いてさへ下されば、それで結構でムいますから、何卒さう仰有らずに、お留めなすつて下さいまし。」と達て頼みますと、老婆さんも気の毒に思つたか、「さうお頼みなら宜しうムいます。こんな汚い家でもお搆ひなければ、御ゆるりと休んで居らつしやいまし。」と、信切に云つてくれますから、旅僧は喜びまして、「それは難有うございます。それではどうかお留めなすつて下さい。」と、これから笠を取たり、草鞋を脱いだりして、「ヤレヤレこれで大きに助かりましてございます。ほんとに私は旅の者で、此辺の路をよく存じませんから、とうとうこんな原中へ迷ひ込んで、さつきは如何しやうかと思ひましたよ。それでも貴女が御信切に仰有つて下さいますので、地獄で仏とはほんとに此の事、こんな難有い事はムいません。南無阿弥陀仏々々々々々々」と、云ひながら上つて来ますと、老婆さんもニコニコしながら、糸繰車を片付けて、囲炉裏の側へ進み寄り、「それはまア此の寒いのに、さぞお困りなさいましたらう。さアさア、此方へ寄て此の火にお当ンなさい。」「はいはい難有うムいます…アヽどうも温い温い。これですつかり蘇生つたやうに成りました。」「お前さんまだ御飯を喰べますまい。」「はい、実は先刻から大分お腹が減つて居りますので。」「それはまアお気の毒な。そんなら少しお待ちなさい、今拵へてあげるから。」と、老婆さんは台所の方へ行て、御飯の支度をしまして、これを旅僧に喰べさせるやら、それはそれは信切にしてくれますので、旅僧はもう大喜悦、頻りにお礼を云つて居りました。
さて御飯も済みましたから、又囲炉裏の側で、二人は種々な談話をして居りましたが、其中に、囲炉裏に燻べる焚材が無くなりましたから、段々火がきえて来て、折角温く成たのが、又前の様に寒くなりました。
すると老婆さんは、「オヤオヤ仕様が無いねエ、焚材がもうおしまひに成てしまつたよ。これぢやア寒くつていけない。ドレ妾は一寸山へ行て、焚材を拾つて来るから、お前さん淋しからうが、少しの間留守番をして下さいな。」と云ひますから、旅僧は何の気もなく、「さうですか。それはまアお気の毒ですねエ。なんなら私が行て拾つて来ましやうか、お年寄をさう使つちやア、誠に済まない話ですから。」と云ひますと、老婆さんは頭を振つて、「なアにお前さんはお客様だから、じつとして居れば可いんだ。こんな野中の一軒家で何も御馳走が出来ないから、せめて火でも沢山にあげなければねエ…ドレそれぢやア留守を頼みますよ。」と、云ひながら出かけましたが、何と思つたか又引返して来て、「さうさう、お前さんに云つとく事がある。妾は直に帰つて来るから、其間はお前さんおとなしくして、其処を動いちやいけませんよ。それから、其の奥の方は、妾の平常寝る処だが、ちつと仔細があるから、決して中を見ることはなりませんよ。妾の云ふ事を聞かないで、もしか見でもしたら、それこそ妾は承知しないよ。」と頻りに念を押しますから、旅僧は只、「はいはい宜敷うムいますとも、お前さんが見るなと仰有るものを、なんで私が見るもんですか。大丈夫だから安心して居らつしやい。」「屹度見ないネ。」「屹度見ません。」「そんなら安心だ。ドレ急いで行て来よう。」と、やがて老婆さんは家を出て、山の方へと急ぎました。
留守は旅僧たつた一人。囲炉裏の側にツク然として居りましたが、何だか気に成るのは、今の老婆さんの言葉です。「妾の居ない中は、決して其処を動いちやいけない。又奥の方は少し仔細があるから、決して覗いちやなりませんぞ。」と、大層念を押して行たが、一体これは如何云ふ仔細なんだらうと、考へれば考へるほど、気に成てなりません。
一体人間と云ふものは、妙に片意地なもので、遣らぬと云ふものが欲しくなり、見るなと云ふ物ほど見度がります。さて、此の旅僧も、今までは何とも思ひませんでしたが、今老婆さんに、決して見ることはならんと云はれて見ると、急に何だか見度く成て来まして、一寸でもいゝから見てやらうと、そろそろ立ちかけましたが…イヤイヤあれほど見るなと云つたものを、見るのはどうも善くない事だ。それに先刻の言葉にも、若しか見たら承知しないと、大層厳しく云つてゐたから、後にどんな目に遭はされるかもしれない。危険々々。これはまア廃す方がいゝと、又坐つたが…イヤさうは云ふものゝ、どうせ此処には居ないのだから、其間に一寸見たからつて、自分で云ひさへしなければ、誰にも解る話ぢやないのだ…寧その事見ようか…見まいか。…見まいか、見ようか、と立たり坐つたりして居ましたが、とうとう思切て、「えゝかまふもんか、帰らない中に一寸見てやらう。」とやがて奥の方へ忍んで行て、そうツと中を覗きました。
すると大変! 中には人間の喰ひ掛が、山の様に積み重つて、彼方の隅には頭があり、此方の隅には足があり、其処等はまるで血だらけで、何とも云はれない腥い臭気が、ツーンと鼻を撲つて来ます。
これを見た旅僧、驚いたの驚かないの? キャッと云つて仰覗様に尻餅をつき、タヽヽヽ大変々々と、思はず声を立てましたが、腰は中々立ちません。只ジタバタと這ひ廻はるばかりで、身体はブルブル、膝はガクガク、どうする事も出来ませんでしたが、漸つとの事で立ち上り、「エヽ、これは飛んでもない家に宿めてもらつたもんだ。これこそ兼て話に聞いた、鬼婆の家に相違無い…先刻はあんなに信切にしてくれた老婆さんも、今に正体を現はすと、それはそれは恐ろしい鬼婆に成つて、私をたツた一口に、喰べてしまふにちがひないんだ。こりや、ど、如何したら可いだらう?…だがこんな処にグヅグヅして居て、今に鬼婆が帰つて来たら、それこそ何様な目に遭はされるか知れやしない。もうかう成つちやア片時も居られない。何しろ大急ぎで逃げ出せ逃げ出せ。」と急いで支度をしまして、戸外へ飛び出し、後をも見ずにスタスタやつて行きますと、誰だか知らないが後から、「おーいおーい」と呼ぶものがあります。
旅僧は聞かない風をして、尚もスタスタ逃げ出しますと、又候「おーいおーい」と云ふのが、段々近く成て来て、果は先刻の老婆さんの声で、「己れ坊主奴、あれほど云つて置くものを、よくも乃公の寝所を見たな。如何するか覚えて居ろ。」と、云ふのがありありと聞えますから、「ヤア大変だ大変だ。取捕つちや大変だ。」と今はもう一生懸命、足の草臥れたのも忘れてしまつて、南無阿弥陀仏々々々々と、お念仏を唱へなから一目算に駈け出しました。
後ろでは「おーいおーい。」前では「南無阿弥陀仏々々々々々々。」おーいおーいと南無阿弥陀仏の掛合で、暫らくの間駈けて居りましたが、茲が旅僧の運の好いので、其中に夜が明けてしまひました。
総じて鬼だの妖怪だのと云ふものは、太陽様の光が大禁物ですから、夜が明けると俄に弱くなります。其処で此の鬼婆も夜が明けるのを見ると、其まゝ何処へか消えてしまひましたから、旅僧はホツト一息つきまして、「ヤレヤレ、危険い命を助かつた。これと云ふのも日頃から信心する、阿弥陀様の御利益だ。難有い難有い、南無阿弥陀仏々々々々々々。」と、相変らずお念仏を唱へなから、尚も国々をまはつて行きましたとさ。
めでたしめでたし。