補説・宮崎一雨とその周辺

「児童文学資料研究」No.57(1994.8.15)に発表
 

 「宮崎一雨の児童文学」(「国際児童文学館紀要」第8号所収 1993年3月)を公にして以来、拙論に対するご意見や一雨に関する情報をお寄せいただいた。本稿では、こうしたご意見・情報をヒントにして拙論執筆後に新たに発見したり、拙論中では取り上げなかった資料や事実について紹介したい。
 まず、一雨の経歴について述べる。
 一雨の伝記的事項については、まだ、未知の部分が多い。拙論執筆の段階では、本名が宮崎侃であり、1886年または1889年に東京日暮里村に生まれ、東京外国語学校(韓語学科)卒業後、「東京日々新聞」「中央新聞」、「飛行少年」誌の記者を歴任したことなどを明らかにすることができたが、没年や本名のよみが不明であるなど、多くを今後の課題とせざるをえなかった。
 ところが、先頃、大衆文学研究家の會津信吾氏から「宮崎一雨は宮崎三昧の息子ではないか」という未確認ながら重要な情報をいただいた。たまたま、私は『日本児童文学大事典』(1993年 大日本図書)で「宮崎三昧」「宮崎一雨」の両項目を執筆担当した為に手元にあった両者の資料をあらためて読み直してみると、重要な事実を見落していることに気付いた。それは、『近代文学研究叢書』18(1962年 昭和女子大学)中にある次の記述である。

三昧は、先妻照子との間に一人息子侃があった。侃は父の後をついで中央新聞記者のかたわら、創作にも筆をそめ文壇にも出ようとしていた。父の枕頭で自然派の作品を読んだり、文壇の動きを話したりして病床をなぐさめていたという。金嶺寺住職の話によると彼は無口でおとなしいが交際など好まず、一風変って、三昧の死後家にもよりつかず、墓参もせず、消息を絶ってしまった。二度目に迎えた妻も三昧の死後は身寄りもなく養老院で生涯をとじたと聞いている。と、二人あった孫も三昧に先立ったため、その家系は絶えた筈である。(傍点は筆者)

 一雨の本名の〈侃〉や〈中央新聞記者〉という経歴の一致からみて、両者は親子関係にあると推定するのが自然である。にもかかわらず、これに気付かず、お恥かしい次第である。ただ、一雨の一家は三昧の死後も三人家族(構成は不明)であったので、「家系は絶えた」かどうかまではわからないはずである。なお、当時、一雨が記者をしていた「飛行少年」(1915年4月号)の「読者通信」欄に、「宮崎三昧とあるは一雨先生の異名なり、記者様よく当つたでせう」「記者曰く、お気の毒ですが、当つてゐません」というやりとりがあるが、このやりとりは件の〈記者〉にとっては楽屋落ち的な面白さがあったようだ。
 また、念のために、『近代文学研究叢書』の記述の裏付け調査を行った。すると、三昧の死亡記事中に「府下千駄ケ谷町五九一の自邸にて療養中薬石効なく廿二日午前九時遂に逝去せり」(「読売新聞」東京版 1919年3月23日)云々という件があり、記事中の三昧の自宅住所と私が独自に調べた一雨の住所が一致していることがわかった。したがって、三昧の息子と一雨が同名別人であるという偶然はありえないということを書き添えておく。
 以上のとおりであるので、三昧の関係から一雨の没年などが判明するかもしれないが、今のところ、これ以上、調査が及んでいない。
 次に、一雨の筆名に関する事実について述べる。
 一雨が白根凌風または白根凉風という別名で執筆していることはこれまで拙論等で述べきたとおりであるが、どうやらこれとは別に、〈笹野千里〉という名前でも執筆していたようである。現在までに、笹野千里名義の作品は、時事新報社から出ていた「少年」「少女」にそれぞれ一篇ずつが確認できている。
 笹野千里が一雨と同一人物ではないかと推定する根拠は、「少女」の第130号(1923年10月20日)である。この号の目次には「烈女の最後(歴史小説)・宮崎一雨」とあるが、該当する頁には「烈女の最後 笹野千里」となっている。これが単なる誤植である可能性もないではないが、いかに目次だけとはいえ、該当する号には作品を執筆していない作家の名前と、全く無関係な作家の名前とを取り違えるというケースはあまり考えられない。一雨と笹野千里が同一人物であるがゆえに生じた誤りと考えた方がよさそうである。しかも、この作品は貞女であり烈女でもある女性を好んで描く一雨の作風と一致している。一方、もう一つの笹野千里名義の作品は「少年」の第246号(1923年12月20日)に掲載された。タイトルは「泉州樫井畷」で、内容は豊臣方の武将の塙団右衛門の討死を描いたものであり、これも一雨好みの題材である。
 また、一雨は「少女」の第82号(1919年9月6日)から「笹野の娘」を連載(完結の時期は未確認)している。想像を逞しくすれば、この作品の主人公の名字の〈笹野〉が笹野千里という筆名のヒントとなったのかもしれない。
 以上のことからすると、確証はないけれども、宮崎一雨と笹野千里が同一人物である可能性はかなり高いのではないか。だとすると、一雨にはまだ知られていない筆名が他に存在する可能性もある。
 最後に、本誌の第52号に「参考」として掲げておいた作品集『次の世界大戦』(「次の世界大戦」ほか収録、1924年7月3日 大日本雄弁会)と、長編『世界征服』(1925年4月10日 同前)の初出が判明した。これまでは、講談社系の雑誌に「次の世界大戦」や「世界征服」が掲載されていないため、あるいは書き下ろしかと思っていたが、時事新報社の「少年」が初出であった。現時点では、連載開始から途中までの分を確認しただけなので、正確に掲載の時期を特定することはできないが、概ね前者は1923年、後者は1924年の掲載である。この「少年」という雑誌は、従来の児童文学研究ではあまり問題にされることがなかったが、どうやら大衆児童文学の研究上、一般に考えられている以上に重要な雑誌であるようだ。
【附記】
會津信吾氏から「怪奇:冒険|空中征服」(「少年倶楽部」1924年4月号〜1925年3月号 白根凌風名で掲載)が外国作品の翻案であることを教えていただいた。原作はラ・ヴォル、ガロパンの作品であるという。(1999.12.13.記)