児童文学資料研究
発行日 2005年11月15日 |
『児童文化 上』収録論文紹介(2) | 大藤幹夫 |
国書刊行会版『西條八十全集』への疑問(1) | 上田信道 |
『実演の仕方と心得(実演仏教童話全集第九巻)』(2) | 藤本芳則 |
『児童文化 上』収録論文紹介(2)西村書店 発行昭和16年2月25日 発行 |
児童のための文学でありさへすれば、私はこれを児童文学と称すべきものと考へます。児童のためと言ふことは、内容表現共に児童に適するもの、そして児童に解るもの、そしてこれが文学であること、この三つが必要の条件と考へます。「児童文学は 文学の基本形式」。時・所・人物とその行動を描く文学の公理に近いのが児童文学である、と説く。
日本の児童文学の発達の後を辿つて観れば、明治維新が起点となつてゐる。そして児童文化、児童教育運動の中から児童文学が生れたのであるが、それは文化的企業者(雑誌経営者・出版社)によつて利用されつヽ育つて行つた。明治三十六年七月十二日、久留島武彦が師の小波を招いて「お伽倶楽部」の発会式を挙げ、「口演童話」運動の基礎を作った。これが「日本で最初の児童文学関係の団体であり、団体運動であつた。」
戦争や人生苦とは無縁の、「エンゼル天使」の如き純真無垢の「童心」をいたはり育てることを念願としたもので、運動の中心をなしたものは、大正七年六月、小市民的ロマンチシズムの小説家、鈴木三重吉の創刊した児童文芸雑誌『赤い鳥』で(略)忽ちにして旧児童文学派を圧倒してしまつた。この「赤い鳥」運動への槙本の視線は醒めている。
『赤い鳥』の運動は、決して結社的の強力な団体組織の運動ではなく、ロマンチシズムの小説家として行詰まつた鈴木三重吉が、外国の児童文学の創作的な書直しの仕事に自分の資質を生かし得ることを見出し、やがて児童読物の浄化を企ててこの運動を起したので、それには知名の文壇人が多数参加している。この児童文学運動の成功の要因をつぎのように纏めている。
(1)インテリゲンチャの聡明さと自由な文化生活の創造的雰囲気をモティフに、「大人の父」たる「エンゼル天使」の如き児童乃至児童生活を表現しようと努力して、しかもその文学的形象化に苦心したことを挙げているが、趣旨がよく読み取れない。
(2)そして当時有力な成人芸術界の作家たちにかうした努力をなさしめたものは、ヨーロッパ大戦の終焉による「永遠の平和」感とデモクラシー思潮と、も一つは彼等作家たちの後継者(児童)が丁度かヽる芸術を要求する年齢期に達しはじめてゐたこと
デモクラシー思想は社会主義的運動の台頭と、一方では国家主義的統制の強化との板挟に遇ひ、『赤い鳥』運動も次第に萎微沈滞して、自由主義的創造性を強調した主張も崩れ、やがては所謂「童心」の殻の中に閉ぢこもり、彼等の好ましき「児童」や「童心」に拝跪するに至つたのである。と捉える。「だが凋落の一途を辿る中に、よく児童文学の純粋さを守り通さうとしたことは感謝すべきである。」との謝辞もある。
云ふまでもなく「新体制」は高度国防国家の確立を目ざすもので、要するに国家を第一義とし、国民の協和を必須条件としてゐる。総和総力の淳風美俗の国民性を涵養し、科学的創造力を助長せしめる指導性ある児童文学こそ、今日以後必要とするものであつて、徒に独善的な個性的な心理主義に陥つた作品とか、たゞ珍奇な興味的な素材主義の作品などは影をひそめるであらう。そして今後の児童文学運動は、艱苦欠乏の中で、統制ある綜合的な、官民一体となつた民族運動の一翼として強力に展開させられるであらう。この(昭和15年10月22日)の日付のある、かつてのプロレタリア児童文学の理論的指導者の結語は重苦しい。
国書刊行会版『西條八十全集』への疑問(1) | 上田信道 |
「肩たたき」と「のこり花火」の場合は、不注意の誹りは免れまいが、単純な誤植と考えられる。
タイトル 『全集』6の頁 『100選』の頁 連 『全集』6 『童謡全集』
『100選』肩たたき 83 162〜163 4 真紅な 真赤な 牧場の娘 85 166〜167 2 四十と六本 四十と三本 のこり花火 87 170〜171 4 雨の霽れまに 雨の霽れまを
(未完)