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インターネットで拡がる児童文学の世界
―『赤毛のアンの翻訳物語』に寄せて―
松本は先に『赤毛のアン』(集英社 93年)を翻訳。その帯には、〈本当の「赤毛のアン」をあなたは知らない〉〈松本侑子の徹底した読解による画期的最新訳〉とあり、出典について詳細に記述した「訳者ノート」が付されている。児童文学の古典的名作『赤毛のアン』は、英米文学や聖書からの引用やパロディーに満ちているので、やはり出典を知らないと本当の面白さがわからない。 ところで、『翻訳物語』にも書かれているように、有名作家や大学教授の翻訳には、《面倒》を省くため、下訳者を使うことが多い。下訳に手を加えた上で、自分の翻訳として出版することは、この世界では常識だ。にもかかわらず、松本が下訳の希望を聞かれたとき、「自分の言葉できちんと全文を翻訳してみたい」と思ったのは立派だと思う。 もともと、翻訳者というものは、単に語学ができるだけで務まるものではないはずである。優れた翻訳者は、「この原書を翻訳することは、日本の児童文学にどのようなインパクトを与えるか」ということを熟考した上で翻訳に取りかかるものだ。しかし、最近は児童書の翻訳はたくさん出ているけれど、ただ語学ができるだけという人の仕事が多くなっているような気がする。児童文学の翻訳を手がけている人と実際に話をしてみて、日本の児童文学の状況をほとんど何も知らないことに、あきれてしまうことがけっこうあるものだ。 だから、松本の仕事は、語学ができるだけの《専門家》を名乗る人種に、鉄槌を下したものだと思う。 松本はテレビのレポーターから小説家に転進し、英米文学を専門に研究したわけではない。その人がよくこれだけ調べあげたものだと思うが、その秘密はCD-ROMやWebの活用にあった。さまざまな出典の検索や、単語の意味調べをはじめ、原書・関連する洋書の入手にいたるまで、総てこうした方法で実現された。単語調べや洋書の入手はともかく、どこから引用されているかわからないフレーズを調べ上げるということは、従来の経験と記憶だけに頼る方法ではなしえなかった仕事であろう。 『翻訳物語』は、まだ、パソコンにCD-ROMが標準でついていなかった頃や、個人レベルでWebに接続できなかった頃から、時系列順に書き綴られている。松本の個人的な試行錯誤の歴史は、パソコンやWebの発達の歴史を振り返ることになる。そして、それはそのままわたしの経験と重なる部分が多く感慨深い。 ただ、日本語から外国語に翻訳しようとするときには、松本の方法は使えない。英語圏の文学ほど、日本文学(古典は除く)は電子データ化されていないからだ。ある文学作品に何かの引用かパロディーらしい文章があるとする。だが、コンピュータで調べようとしても、肝心の検索対象となるデータがほとんどないのである。宮沢賢治のような一部の人気作家についてはCD-ROMが発売されているが、多くはボランティアがWeb上での公開を行っているだけで、公的な取り組みにはなっていない。 図書館の世界でもコンピュータ化が盛んだが、ほとんどは行政サイドの要請からきたもの。つまり、省力化と予算削減のための導入である。だが、ほんとうのコンピュータ化には人手も予算もかかるものだ。せめて、著作権切れの図書については、内容自体を電子データ化して提供してもらいたい。 それはさておき、『翻訳物語』の巻末には、松本や共著者の鈴木康之が解説しているホームページのURLが書かれている。これを足がかりに、『赤毛のアン』に関する世界中の情報を手に入れることができる。 まず、鈴木がWeb上に公開しているホームページ(The Pigeon Post)を見ると、「1997年カナダの旅 」のページからはモンゴメリゆかりの地に関する情報、「物語の舞台を訪ねる旅」のページからはアーサー・ランサムやヒュー・ロフティングに関する情報が手に入る。 次に、松本が公開しているホームページ(Yuko Matsumoto)を開いて見ると、「赤毛のアンの電子図書館」というページがある。翻訳の仕事のソースになったさまざまな英文の資料と日本語の解説を閲覧することができる。ほかに、「LMM in Ontario」(開設者=トロント公共図書館の梶原由佳氏)や「Anne of Green Gables」(開設者=プロジェクト・グーテンベルク)などにリンクされている。前者はモンゴメリに関する情報、後者は『赤毛のアン』の英語版全文を提供している。 また、アン関係以外にも、「ひこ・田中というごたく」(開設者=児童文学作家のひこ田中氏)にリンクされている。これは児童文学関係ではもっとも充実しているホームページとして定評がある。そして、わたし自身のPRで恐縮だが、ひこ田中氏のホームページからは「上田信道の児童文学ホームページ」にもリンクされている。 児童文学関係のホームページをネットサーフィン(リンクをたどってホームページからホームページへと移っていくこと)していくと、わたしの知り合いの名前があがっていたり、彼らが開設するホームページにたどり着く。そして、わたしの《知り合い》には、既存の組織に属していない人や、電子メールのやりとりだけで、顔を会わせたことのない人も含まれる。そういう従来は考えられなかった新しい形のネットワークが、いま、形成されつつあるのだと思う。 最後に、ここで紹介したホームページのURLを掲げておく。児童文学に興味をもち、Webに接続可能な方は、閲覧されることをおすすめしたい。
【「本とこども」1999.3掲載】
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